見る、観る、と空観

これまで「見る」と「観る」を区別して書いてきた。「見る」は自然に目に入る現象世界をみている状態の意味で使ってきた。つまり、いわゆる五感の視覚の対象世界である。


「観る」はその目の前にある対象のウラにある本質世界をみるときに使ってきた。つまり、現象世界をみるときは「見る」、本質世界をみるときは「観る」である。


ところで、数日前、「空観(くうがん)」という言葉をおもいだした。この空観は宗教的なことば、仏教的なことばで、デジタル大辞典によると、「くうがん 仏語。一切の存在には本性がなく、実体をもたないという心理を観想する方法、と記されている。


わたしはこの空観世界に関心があり、それを求めて生きてきた、といえる。老いてきて分かってきたことは、目に見える現象世界は、比喩的にいえば、1%以下しかないだろうとおもう。


この1%の世界に、嫉妬心などの感情世界や、金銭欲などの欲望世界や、私心を満足させるための恣意的論理などが横たわっており、そこは本質世界とは遠いとおもっている。そして、最近は、「夢記」と「IBテキスト」と「日本語ライティング」という本で、この本質世界を裏打ちして書いている。